Mag-log in私が返事をしないまま窓の外へ顔を向けると、車はホテルへ続く大通りへ入り、雨に濡れた街灯の光が、一定の間隔で朔也の横顔を照らしては消していった。十二日間考えればよいと言われても、翌朝には取締役会が開かれ、古い研究資料が消されるかもしれない状況では、考える時間を与えられたというより、追い詰められた場所へ時計だけを置かれたように感じた。
「十二日間待つような言い方をしましたけれど、本当は、明日の取締役会までに返事が欲しいのではありませんか。期限を正直に言えば私を脅しているように見えるから、選ぶ時間を与えたふりをしただけなら、その時点で契約に必要な誠実さがありません」
「明日までに結婚しろとは言わないし、君が断った場合に備えて、椎名には信託委員会への仮処分を準備させている。ただ、裁判所が動くまでに研究資料を別の名目で処分される可能性はあるから、俺が明日の返事を期待していないと言えば嘘になる」
「それなら、最初から、明日までに決めてほしいと言えばよかっ
第56話 陣痛が始まり、子どもの父親を知ることが救命条件になりました 腹部を締めつけていた痛みがいったん遠のくと、私は、自分の身体へ戻れたような錯覚を覚えたが、六分四十秒後には、先ほどより低い位置から硬さがせり上がり、腰骨の内側を押し広げるような痛みが始まった。呼吸の仕方は教えられていたものの、息を長く吐こうと意識するほど、誰かに呼吸まで命令されているようで腹が立ち、私は、朔也が差し出した手を握りながら、規則正しく息をしろと繰り返す助産師ではなく、何も言わずに痛みが過ぎるのを待っている彼へ、その苛立ちを向けた。「手を握ってほしいとは言いましたが、私が痛がるたびに、そんな顔をしないでください。あなたまで苦しそうにされると、私は、自分の痛みだけでなく、あなたを安心させる仕事までしなければならないような気分になります」「どんな顔をすればいいのか教えてくれれば直すが、たぶん、今の君は、俺が平然としていても腹を立てるだろう」「平然としていれば、他人事だと思って怒るでしょうし、大丈夫だと言われれば、何を根拠に決めるのかと怒ると思います。だから、私へ正しい態度を求めないでください。今は、何をされても面倒に感じる自分まで含めて、放っておいてほしいのです」「分かった。手だけは、このままでいいのか」「それは離さないでください。私が矛盾したことを言っているのは分かっていますが、出産中まで一貫した人間でいる義務はないでしょう」「ない。君が俺を必要としながら嫌っていても、俺は、そのうち都合のいいほうだけを信じないようにする」 痛みが引いてから診察を受けると、子宮頸管は前の検査より明らかに短くなり、子宮口もわずかに開き始めていた。篠崎医師は、AUR‐011‐01‐Dが陣痛に似た信号だけを作っているのではなく、私の身体が実際の分娩過程へ入りつつあると説明し、収縮を弱める薬を使える可能性はあるものの、一般的な早産管理と同じようには考えられないと続けた。「Dの細胞は、胎児の心拍と子宮収縮の両方へ影響している可能性がありますから、陣痛を強く止めようとすると、子宮だけでなく胎
私が命じたことにされた「出生前回収」の実行予定時刻まで、残された時間は十五分しかなかった。 病室の空気が急に変わり、篠崎医師は胎児心拍と血流の確認を続けながら、看護師へ、通信機能を持つ機器を全て病室の外へ出し、生命維持に必要な装置は院内回線から切り離して独立電源へ切り替えるよう指示した。「胎児へ送られている信号を止められるのですか」「発信源と考えられる端末は警察が停止しましたが、命令が胎児側へすでに記録されているのか、一定時間ごとに信号を受け続けなければ作動しないのか分かりません。まず、新しい信号が届く経路を遮断します」「十五分後に、胎児の身体で何が起きるのですか」「D由来細胞が心拍を止めるのか、子宮収縮を起こす物質を出すのか、それとも医療機器へ別の命令が送られるのか、まだ特定できていません。分からないまま安心させることはできませんが、現在の胎児心拍と胎盤血流に、直ちに分娩が必要な異常はありません」「それなら、予定時刻まで待ち、何が起きるか見るのですか」「待つのではなく、起こり得る変化へ備えます。緊急帝王切開が必要になった場合の手術室と新生児治療チームを確保しますが、研究側の回収手順は使いません。Dの摘出も、子どもの命を守るため医学的に必要だと確認できない限り行いません」 出産の準備を進めれば、研究側が望んだ回収手順へ近づくよ
AUR‐011‐01‐Dと考えられる第四の系統は、別の女性へ移植するために保存された胚ではなく、私が出産したあと、胎児の身体から回収することを前提に作られていた。「回収するとは、どのような処置をするのですか。臍帯血や胎盤を採取する程度ではなく、子どもの身体を切るという意味ですか」「現時点では分かりません。『第一妊娠主体から回収する』という文言だけでは、母体から採取するのか、新生児から採取するのかも、本来なら断定できません」と篠崎医師が答えた。「けれども、培養記録では、第四の系統をAへ組み込んだと書かれているのでしょう」「はい。AUR‐011‐01‐Aへ、D由来の細胞を共培養し、発育の途中で定着させたという記録があります。その記載が事実であれば、Dは現在、胎児のどこかに存在している可能性があります」「どこにあるかは分からないのですか」「記録には、回収部位を示す符号が使われていますが、変換表がありません。通常の超音波検査で見える大きさの組織なのか、血液や骨髄へ混ざる細胞なのかも確認できていません」「見つけるためには、また胎児を調べる必要があるのですね」「はい。ただし、新しい刺激を与えず、これまでの超音波画像と血流記録を見直すことから始められます。追加検査が必要になった場合は、目的、危険、分かる範囲を説明し、改めて澪さんへ同意を
AUR‐007と呼ばれる女性が入院している周産期医療センターは、久瀬製薬から独立しているという理由で、私の新しい医療チームを派遣した施設だった。 その事実を知らされた新しい責任者の篠崎医師は、驚きを隠すための表情を作らなかった。彼女は、AUR‐007という研究番号を見たことはないと答えたものの、追跡不能者の入院記録に含まれる年齢、既往歴、転院時期を確認すると、思い当たる患者がいることを認めた。「氏名や現在の病状については、本人の同意がなければお話しできません。ただ、私が所属するセンターへ、久瀬製薬の旧産科病院から転院した女性がいることは事実です」「先生は、その人が過去に胚移植を受けていた可能性を知らなかったのですか」「知りませんでした。転院時の紹介状には、反復する子宮出血と免疫異常の経過観察が必要な患者であり、過去に妊娠反応が出たものの、初期流産した可能性があると記載されていました。胚由来組織を子宮へ移植したことも、子宮外の装置へ移したことも書かれていません」「それなら、先生のセンターも、久瀬製薬に騙されていた被害者だと考えるのですか」「現時点で、そう決めるつもりはありません。引き継ぎ情報が偽られていた可能性はありますが、私たちの側が、患者本人から過去の処置について十分に聞かず、紹介状を信用した責任もあります。また、センターが使用している一部の医療装置と患者支援基金に、アウローラ患者継続財団の前身となる資金が入っていることも、今、確認が必要です」
私の身体へAUR‐011‐01‐Aを移植する処置について、最終承認を与えた人物として表示された主治医は、画面に映し出された自分の電子署名を見ても、偽造だとは言わなかった。「この署名は、先生のものなのですか」「電子証明書の番号と署名時刻を見る限り、私が当時使用していたものに間違いありません。ただし、私が承認したと認識していた処置と、今、映像に残っている処置は内容が異なります」「また、表示された書類と、実際に使われた書類が違ったという説明ですか」「そう聞こえることは分かりますが、私は、自分に責任がないとは申し上げません。当時、私は中央病院の周産期緊急審査班へ所属しており、旧産科病院系列の診療所から、凍結された自己由来組織を子宮内へ戻す処置について、遠隔承認を求められました」「自己由来組織とは、私自身の細胞という意味ですか」「申請書には、患者本人から過去に採取し、治療用に培養した子宮内膜組織と記載されていました。月経不順と免疫異常によって内膜が損傷しているため、本人の組織を戻し、妊娠可能性と将来の出血リスクを改善する処置だと説明されていました」「胚を移植するとは書かれていなかったのですね」「私が閲覧した画面には書かれていませんでした。しかし、承認時に紐づいていた検体番号がAUR‐011‐01‐Aだったことは、あとから確認できたは
私自身が妊娠を知るより先に、朔也は研究側から私の妊娠を知らされ、その事実を隠したまま結婚を申し込んでいた。 彼から結婚を申し込まれた日のことを、私は何度も思い出していた。冬真を亡くしたばかりで、久瀬家からは遺産と研究資料を渡すよう求められ、誰かの妻や相続人ではない自分として生き直したいと言いながら、実際には、今後の生活を一人で決めることへ怯えていた時期だった。 朔也は、愛しているから結婚してほしいと、きれいな言葉だけを並べたわけではなかった。私を守りたいという自分の欲を認め、冬真の代わりになるつもりはないが、私が一人で久瀬家と争うところを見ていることもできないと話した。その不器用さを、私は信じた。 しかし彼は、そのときすでに、私が妊娠しているという、私自身さえ知らない医療情報を持っていた。「私が妊娠していると知っていたから、結婚を申し込んだのであれば、愛していたから結婚したという説明は、あとから付けたものですか」「あとから付けたものではない。君を愛していたから、妊娠を知り、誰かに利用される前にそばへ行こうとした」「それを、愛情と言えば正当化できると思っていますか。私は、冬真を亡くした直後で、自分でも知らない子どもを妊娠していて、久瀬家から狙われる可能性がある女性だったのでしょう。あなたにとっては、守る理由が全てそろっていたのですね」「否定できない。俺は、君が一人では対処できない状況だと考え、自分が必要だと思った」







